連載コラム

連載コラム:伊東道生の『<頭>で飲むワイン 』 Vol.11 2012.03.12

「趣味」と「高貴」
 
よいワインと、そうでないワインの違いは何でしょう。
よくないワインなどない。ただ、相対的に品質の高い<よい>ワインと、そこまでいかない<よい>ワインがあるだけだ、という言い分もあるでしょう。フランス語で、「よい」はbonですが、この言葉は、ワインを批評するときには、単純すぎて使いませんね。際だって(distingué )、偉大(grand)であったり、エレガント(élégant)で、繊細(délicat, fin)であったりなどと、形容詞を連ねます。それはともかく、もし、よいワインとは、どういうものか、と問われると、どう答えるでしょう。

 例えば、ある批評家が、これは、よいワインと認めたから、よいワインとなるでしょうか。その批評家も、当然<よく>なければならないでしょうし、よい批評家というものは、それなりの能力がある人でしょう。すると、
  よいワインは、よい批評家にとって認められるものである。
よい批評家は、訓練と資質を備えている。
訓練と資質を備えている批評家は、よいワインを認める批評家である。
となり、結局の所、よいワインはよい批評家が認めるもので、よい批評家はよいワインを認めるもの、というように話が循環してしまいます。
この話は、実は、ヒューム(David Hume,1711-1776)という18世紀のイギリスの人が書いた「趣味の基準について」という論文で指摘されています、というか、ヒューム自身がこの循環に陥っているのではないか、と指摘されています。

ところで、この論文の表題にある「趣味」の原語は、taste です。趣味というと、「彼の趣味はゴルフです」とか、「私の趣味はワインを飲んで、あれこれと語ることです。」というときが、ありますが、それはhobbyにあたります。
またtasteと言う言葉には、「好み」や「嗜好」という意味も含まれています。ここでいう趣味は、そうした「好み」から延長して、あるものを「好ましい」とする、とりわけ、あるものを「美しい」と評価する能力のことです。

17世紀後半から18世紀にかけての西欧で、趣味は、審美眼、美しさを判断する能力として、盛んに議論されるようになります。18世紀を「趣味の世紀」とまで、言う人もいます。歴史上のエポックを「~の世紀」と言いたがるのは世の常でしょうか。18世紀は、啓蒙主義、フランス革命、産業革命を経験し、それまでの絶対王政と、その傘下にあったキリスト教会から近代社会へと変わる時代で、「理性の世紀」とも呼ばれています。
一方で、理性が叫ばれ、他方で、趣味がもてはやされるという面白い現象ですが、人間が宗教や権威ではなく、理性を働かせて合理的に計画し、行動していこうという社会で、一人一人が自由で、独自の趣味をもつことも認めるという点で、言ってみれば車の両輪でしょう。当時は、そうした趣味による評価が、主観的にすぎないのか、なにがしかの客観性をもちうるのかが、議論されていました。
 
 さて、「よい」ワインは、別として、「偉大な」ワインは、限定されるのでしょうか。
 先日T氏と、フランス南西地方(sud-ouest)のワイン、Pacherenc-du-Vic-Bilhを飲みました。ピレネのAOCは発音しにくいものが多いですが、これなど典型です。Irouléguyなどもそうです。[v]と[b]、[l]と[r] のように、日本語で区別しない音が連続で出てくると、かなり大変です。ちなみに、カタカナ表記では、前者は、パシュラン=ドュ=ヴィック=ビル、後者は、イルーレギとなります。
 中世の巡礼で有名なスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラの街道付近にあり、同じ地域のMadiran(これは普通に、マディラン)は、巡礼者に人気のワインで、ミサにもよく使われていたようです。またJurançon(ジュランソン)のワインは、フランスで最も人気のある王様アンリ4世(1553-1610)が、そのワインで洗礼をうけたことで有名です。
 さて、かのT氏はPacherenc-du-Vic-Bilhを飲んで、「ブドウの質が、かの高貴なものとは違う」と言った旨の評価をしました。「高貴」とは、英語でnobel、フランス語でnobleですが、皆さんご存じのchardonnay(シャルドネ)と、パシュラン=ドュ=ヴィック=ビルのブドウ品種であるmanseng(マンサン)種やcourbu(クルビュ)種との差に、それがあるのでしょうか。ちなみに、Möet-Hachetteのワイン辞典では、AOCのような偉大な質のワインのブドウは「高貴」となっているので、いずれも「高貴」では、あるのでしょうが・・・。
「氏より育ち」ということわざもありますが、育ちと血統、テロワールと品種は、高貴なワインに不可欠なのでしょうか。するとワインの評価をする趣味の能力は、ワインの性質を見極める、きわめて客観的判断能力になるのでしょうか。
そう言えば、「純血種pur sang」というワインもあったなあ。