連載コラム

連載コラム:伊東道生の『<頭>で飲むワイン 』 Vol.14 2012.06.17

社会的な意味としてのフィロキセラ

アンドレ・モロワ(André Maurois, 1885-1967)というフランスの批評家に『フランス史』という本があります。1947年に出版されたので、もう古典の部類です。その中に、こういう文章が出てきました。
「フランス農業は、19世紀には、1haあたり収穫高が、高かったイギリス、ドイツの農業に引き離されていた。それは、高価な農機具の使用を困難にしていた耕地の狭さのためであった。科学的でなかったフランス農業は、また肥料もすこししか使わなかった。」「保護法のおかげで、麦は相変わらず、もっとも報酬の多い耕作だった。しかし、葡萄と桑と砂糖大根は、国家にとって、より現実的な利益となった。油虫(フィロキセラ)による葡萄園の多数の破壊は、政治的な結果を生んだ。なぜなら、アメリカの苗木を買うだけの余裕のある地主だけが、葡萄を植えることができたからである。そこから南西の葡萄栽培地区の左翼への横すべりが起こった。(アンドレ・モロワ『フランス史』新潮文庫)

学名phylloxéra vastatrixという言葉の語源は、「不毛をもたらす破壊者」だそうです。フィロキセラ禍というと、ヨーロッパ系葡萄が被害を多大な被害をうけ、アメリカ産の葡萄に接ぎ木して、というところで、往々、話が終わってしまいます。まあ、現代でも被害が絶えたわけではない、というエピソードが付け加わる程度でしょう。
最初の発現は、ラングドックのガールGard県のプジョPujautで、1861年とも63年とも言われています。実際の被害は、1870年代に入って本格化しています。

当時のフランスは、どうなっているかというと、1851年のクーデタで権力を握ったナポレオン三世が、第二帝政をはじめます。産業革命もおこり、資本主義はめざましい発達を遂げる。万博の開催、ボン・マルシェなどのデパートの開店。パリの改造、鉄道の普及・・・。格付けのおかげで、ワインも資本主義を担う商品としてめでたくデビューです。
ナポレオン三世は、1870年の譜仏戦争で、プロシアに敗北し、帝政崩壊。その後、71年に、第三共和政が建てられます。共和政といっても、かなり帝国主義的で、チュニジアをはじめとするアフリカや、ベトナムをはじめとするインドシナに植民地を広げていきます。

そうしたなかで、ラングドック地方は、それまで行なってきた牧羊や小麦栽培も含めた地中海式多角経営という伝統農法を捨て、もっぱら葡萄栽培一筋になります。そこにフィロキセラがおそったわけです。当時のアメリカの苗木が、はたしていくらしたのか、勉強不足で知りません。農村も都市化がすすみ、都市部での労働運動とあいまって、貧困労働層、農民層の「左翼への地すべり」がおきたのでしょう。残念ながら、『フランス史』では、それ以上の具体的な記述はありません。

ワイン史の第一人者であったロジェ・ディオンの『フランスワイン文化史全書』によると、19世紀半ばに、フィロキセラが広がる以前、パリ盆地北部のブドウ栽培、つまり、イル・ド・フランス地方のワインは、「フランスのワイン」と呼ばれ、名声を博していましたが、この地もフィロキセラに襲われます。他の地域では、葡萄園の回復の努力が払われますが、鉄道で運ばれてくる安価な南仏ワインという要因が、北部の葡萄ウ栽培を衰退させます。葡萄一筋になった南のワインが、「フランスのワイン」を圧迫します。
加えて、休耕地を家畜用の飼料栽培地に変えたり、砂糖大根のような産業用作物を植えたりすることで、穀物栽培回復し始め、葡萄栽培を圧迫するもう一つの要因になります。葡萄よりも、麦と家畜に価値を見いだす実業家農家の動向が大きくなっていきます。

こうして19世紀半ば以降のフランスは、産業が発達し、都市に労働者があふれ、彼らに、あまり品質のよくないワインを提供して、利益を得ようという動きがでてきます。「フランスのワイン」の質が落ち、パリ周辺のワインは何世紀も続いた名声を失います。パリのキャバレーからはじまった粗悪なワインの流行が、イル・ド・フランス地方に広がっていきます。そのため、そのような流行に毒されていないイル・ド・フランス地方の上質なワインを、独自の名称で区別する必要がでてきます。その結果が、「シャンパーニュ」という名称を独立させるという副産物をうみました。



フィロキセラ(phylloxera)です。
※参照URL

上の図は、イギリスの『パンチ』紙(1890年9月6日)にのった漫画。「フィロキセラは、本当のグルメ。最高のぶどう畑をみつけ、最高のワインを愛飲する」と、コメントされています。