連載コラム

おおくぼかずよの「男女の友情は成立するか?それはさておき日本酒の話」 Vol.10 2018_09_07

【三浦仙三郎と広島の酒】

今年のSAKE DIPLOMA一次試験は昨年よりも細かな問題も多かったかと思います。せっかく覚えた知識です。知識を受験対策で終わらせるのではなく、より豊かな体験へと繋げて頂きたい。日本酒は地域、歴史、気候風土など、日本という国を端的に語ることの出来る嗜好品以上のものであり、醸造も様々な要素が複雑に影響し合っているのが特徴です。その中のひとつふたつと明かりを点すように知識があると、絡み合っている事象を解き、そこから見えてくる味わいがあります。

例えば、三浦仙三郎氏。彼の名前と彼が確立した軟水醸造法、そして場所は広島ということを学ばれたかと思います。受験をされていない方はなんとなくお分かりになりますか? 講座ではどうしても駆け足ですすんでしまう部分ではあるのですが、先日、「三浦仙三郎と広島の酒」という講演会に伺い、改めて三浦仙三郎の功績に触れることが出来たので今日はそのお話を。

三浦仙三郎は1847年(文化4年)、広島三津村(後の安芸津)の雑貨商、今でいう問屋の家に生まれました。家業は酒蔵ではありませんでしたが、安芸津は広島藩の米の集積所だったことなどから酒造りが盛んであり、1876年(明治9年)、30歳のときに仙三郎も酒造りを始めます。けれども初めの数年は腐造ばかり。良酒を醸すべく技術書を読み漁り、当時、最先端の酒造りを行っていた灘の酒蔵に立場を隠して蔵人として潜り込んでまで醸造法を研究したという逸話まであります。

そんな折、伏見の醸造家の話から水質が酒造りに影響することを知ります。この頃はまだ醸造に微生物学が導入される前の時代であり、(国立醸造試験所が出来るのは1904年)当時の醸造法は発酵の進みやすい硬水をつかった灘の醸造法であり、それは広島の水に合わなかったのです。腐造の原因が広島の軟水にあることを突き止めるまでかなりの時間を有しました。

それから仙三郎は、軟水で造る醸造法確立のための実験を重ね、1898年(明治31年)軟水による改良醸造法である、麹をしっかり育てることで米の糖化を進めて発酵を活発にし、醪は低温でゆっくりと発酵させる「軟水醸造法」を完成させます。

仙三郎はこの製法を自らの酒造りのためだけではなく広くオープンにし、広島全体の酒質を向上させます。その甲斐あって、1911年(明治44年)に開催された「第1回全国清酒品評会」では、広島の出品酒が素晴らしい好成績を収めます。時代が大正に変っても広島の上位入賞は続き、広島は灘、伏見と共に銘醸地として全国に名を馳せることになります。

仙三郎の座右の名は「百試千改」。彼の情熱によって確立された軟水醸造法は吟醸造りの先駆けともなり、現代に続く地方銘酒が技術、品質面で日本酒をリードする、大きな潮流を生み出したきっかけともなったのです。

仙三郎の功績はこれだけに留まらず、当時は大変貴重であった米を扱う酒造従事者として、国家、社会、雇主に重大な責任を負う立場から「至誠録」という手帳を交付し、杜氏の人格の涵養にも努めたそうです。

日本酒の歴史を振り返るには、点でしかない知識が大いに役立つものです。その点が大きな時代の潮流の中のランドマークとなり、どこから流れて来たのか、そしてどこへ流れていくのかを知る一助になります。

今日の広島の酒は蔵ごとにそれぞれの特徴があるのはもちろんですが、広島の酒というと「小味のきいた酒」と表現されます。三浦仙三郎の生まれた安芸津にある「富久長」醸造元の今田酒造本店ではそれを「時に淡白にも感じられるが滋味にあふれた味わい」といいます。物語を知って飲むのと知らずに飲むのでは、テイストが変ってくるもの。広島の豪雨災害からの1日も早い復興を願いながら、是非、口当たり柔らかな小味のきいた美酒をお飲みになってみて下さい。