連載コラム

連載コラム:伊東道生の『<頭>で飲むワイン 』 Vol.09 2012.01.09

ブルゴーニュの今昔、再び

ワインの歴史についての碩学、ロジェ・シャルチエを読むと、「フランスのワインvin de France」という表現がよくでてきます。それを意識してから、他の歴史書を読むと、意外に頻繁にこの表現がでています。
例えば、シャルル6世(1386-1409)の時代、王家に納入されたワインは、ブルゴーニュのワイン、ボーヌのワイン、サンプールサンのワイン、「フランスのワイン」vin de France、と分類されているようです。ボーヌは、当時の最高級品として扱われ、並のブルゴーニュとは異なった扱いです。サンプールサンは、オーヴェルニュ地方にあるリマーニュ地方の街の名です。オーヴェルニュは、フランスの真ん中の中央山塊(マッシフ・サントラール)の地域圏で、世界遺産でも有名なル・ピュイの聖堂があったりするところです。現在の我々のもつ山岳イメージは、およそブドウ畑とは、結びつきませんが。
最後の「フランスのワイン」は、パリを中心とするイル・ド・フランス、またもう少し広がって、オルレアンなども含まれる圏域でとれるワインです。セーヌ川、その支流のオワーズ川、エーヌ川、マルヌ川に囲まれ、島のように見えるので、「フランスの島」=イル・ド・フランスとなったわけですが、この言葉は、15、16世紀くらいから使われるようになりました。セーヌ川やロワール川という交通手段が、ブドウ栽培とワイン造りには要件となり、パリやオルレアンといった、今となってはブドウ畑と縁がない地域が、かつての産地でした。交通と消費地が第一で、テロワールは、その後の話というわけです。
また同様に、ボルドー、パリ、ドイツのトリーアTrierなどブドウ畑と都市の関係は密接で、とくに司教座や大司教座がおかれた場合は、なおいっそうでした。トリーアは、ローマ時代に建設されたモーゼル河畔の都市で、司教座がおかれます。ローマ皇帝もしばしば滞在した第二のローマであり、ブドウ栽培が古くから盛んでした。
コート・ドールの司教座都市は、オータンにありました。周辺のブドウ畑は、この司教都市の司教区の範囲にとどまっています。それもあってか、17世紀に、あるイタリアの詩人は、ボーヌとその周辺で作られるワインを「オータンのワイン」とも呼んでいたそうです。
パリからブルゴーニュへの道を走っていると、途中で「この方向、オータンAutun」の看板があります。ブルゴーニュ圏としては北の方にあるソーヌ・ロワール県の小さな街ですが、歴史は古く、ローマ皇帝アウグストゥスの勅許でつくられました。
すでに4世紀初頭には、オータンの住人が、免税措置を聞き届けてくれたローマ皇帝コンスタンチヌスに宛てた賛辞のなかに、「アレブリグヌスの村(パグス・アレブリグヌス)」という名で知られている名声を博したブドウ畑がでてきます。パグス・アレブリグヌスとは、今日のコート・ドールです。皇帝に当てた書簡では、「ブドウ栽培で有名なパグス・アレブリグヌスでさえ、羨望に値するにはほど遠く」、「アキテーヌ(ボルドー)や他の属州と異なり、どこにでも新たなブドウ作りをする空間がない」ことを訴え、免税を願っています。
現実はどうであったかわかりませんが、3世紀後半から起こったゲルマン人の大移動は、この地にも及び、破壊と荒廃を免れえなかったこともあったのかもしれません。ゲルマン人に対抗するためにも、最前線としてゲルマン人を監視するトリーア、そことローマとを結ぶ交通の要所としてのオータンが重要視され、都市機能が発達するとともに、早くからブドウ栽培が行われていたようです。
13世紀になると、フランスのブルゴーニュ地方は、ヴァロワ家によって治められます。このヴァロワ家に雇われていた画家がいます。ネーデルランド、つまりオランダなど北ヨーロッパのフランドル派に属する有名なヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck,1395頃-1441)という人です。彼のもとへ、オータンにある教会ノートルダム・ドゥ・シャステルへの奉納肖像画の依頼が来ます。
できあがった作品は、『宰相ロランの聖母』で、1435年頃に描かれました。この絵は、ノートルダム・ドゥ・シャステルが1793年に焼失した後は、オータン大聖堂に所蔵されていましたが、1805年にルーブル美術館へと移されたので、見た人もいるかと思います。
幼子のイエスを抱いたマリアが、右側に描かれ、イエスがミサを行っている人物が依頼人です。その依頼人とは、作品の題名にもあるニコラ・ロラン(Nicolas Rolin ,1376–1462)です。ニコラ・ロラン、皆さんご存じですね。あのボーヌにある「オスピス・ド・ボーヌ」を作った人です。
ニコラ・ロランは、ヴァロワ家のフィリップ善良公に仕えました。この人は、百年戦争で、かのオルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクを捕らえ、イングランドに引き渡します。ロランは、そのフィリップ善良公のもとで、辣腕を振るいます。肩書きは、chancelier シャンスリエ、官房長、書記官といったお偉いさんです。財務も担当し、そうとうあくどいこともやっていたらしい。ジャンヌ・ダルクを、1万リーブルの身代金で売った件にも関わっているのかもしれません。
晩年の1433年に、それを悔い改めたかどうかわかりませんが、ボーヌという中心に建てたのが、Hospices de Beaune(オスピス・ド・ボーヌ)または Hôtel-Dieude Beauneオテル・デュー・ド・ボーヌ(ボーヌの神の家)です。この運営のために、ニコラ夫妻は自分の持ち畑を寄進しますが、この後も寄進が続きます。今日では、11月第三日曜日の、例のオークションで有名ですね。

参考:ロジェ・ディオン『フランスワイン文化史全書』国書刊行会
堀越孝一『ブルゴーニュ家』講談社現代新書