連載コラム

おおくぼかずよの「男女の友情は成立するか?それはさておき日本酒の話」 Vol.12 2018_12_14

こんにちは。日本酒コラム担当のおおくぼかずよです。先日、浅草の老舗会席料理店にて「日本酒とうなぎを楽しむ会」のコーディネートをさせていただきました。うなぎの甘辛いタレと炭で焼いた香ばしい香りと日本酒は好相性。無理なく合わせるペアリングの心地良さを再確認しました。
浅草といえば徳川家康の入府によって人口が急増した江戸の町の経済、文化の中心地として発展し、江戸前の海で獲れた魚介のほかにも全国から船で海産物が運ばれ、豊かな魚食文化が生まれました。今でも浅草にはうなぎ、どじょう、寿司に天ぷらなどの老舗が軒を並べています。江戸初期の本草学者が書いた料理に関する古典などを開くと、日本は稲作を中心とした農耕民族であり、四方を海に囲まれた海洋民族でもあることに気づかされます。

▼江戸時代の魚介の格付け

さて、当時の江戸の人々はどんな魚を食べていたのでしょうか。「千葉大学教育学部研究紀要」の「古典料理の研究」に収載された「古今料理集」には、当時の魚介類の格付けが記されています。

上魚:たい、はたしろ、ます、あんこう、あまだい、さより、しらうお、すずき、さけ、さわら、いしがれい、ます、あゆ、生だら、こい、ふな

中魚:たこ、なまこ、こち、ひらめ、めじか、もうお、あじ、あら、いか、ぼら、あかうお、かつお、あかえい、ほうぼう、いしもち、すばしり、うなぎ

下魚:生ぶり、くろだい、はぜ、生さば、かど、さめ、生いわし、ふぐ、こはだ、むつ、おこぜ、しまあじ、はえ、生くじら、まぐろ、ひしこいわし、このしろ、ざっぱ(ままかり)、どじょう、うぐい

上魚には白身魚が多く、たいは縁起のよい魚として祝いの席では欠かせぬものとされています。鯛が重宝されだしたのは江戸時代からと言われ、内陸の京都に都があった頃は、こいが最も高貴な魚とされていました。たいは色が赤くおめでたい魚であり、焼いても身崩れしづらいことから、「切る」「崩れる」といったことを忌み嫌う場では尾頭付きで供されるようになりました。

下魚のふぐは今でこそ高級魚ですが、中毒死が多く下魚に格付けされていたとのこと。まぐろは当時は醤油漬けにして保存されていたため、特に脂の多いトロの部分は捨てられていたそうです。そんなまぐろは庶民の間では捨ててしまうのはもったいないと、ねぎと一緒に鍋にしました。ねぎま鍋の「ま」はまぐろの「ま」のことです。

▼なぜ関東は1度白焼きにした後にうなぎを蒸すのか?

中魚のうなぎは、関東では利根川などで獲れました。三国山脈を源流とする利根川は急流のため、うなぎが痩せて固くなる。関西では、琵琶湖や琵琶湖から流れ出る淀川などでうなぎが獲れ、湖や流れの穏やかな淀川で育ったうなぎは柔らかかったので蒸さずに食べた、といわれています。庶民はうなぎよりも入手しやすかったどじょうをよく食べていたようです。

▼江戸時代の日本酒

古代の口噛みの酒からはじまった日本酒は、朝廷や貴族のみが口にできた時代を経て江戸時代の頃には庶民にも広まり、産業としての日本酒造りが確立しました。江戸時代前期の頃の日本酒は伊丹でつくられた「丹醸酒」と呼ばれた濃醇甘口酒が、後期になると灘の硬水でつくられた辛口酒が人気を博したようです。辛口といっても現代のそれよりもずっと酸が高いのが特徴で、水で薄めて飲んでいます。

▼くだる酒、くだらない酒

江戸で人気を博した上方からの日本酒は、樽廻船(貨物船)で運ばれて「下り酒」と呼ばれました。江戸に送るほどでもない酒は下らない酒となり、それが取るに足りない、つまり「くだらない」という言葉の語源のひとつと言われます。